1918年に千葉県津田沼海岸に設立された伊藤飛行機研究所はその代表的なひとつで、所長の伊藤音二郎は伊藤式という複葉飛行機や水上機を自ら、設計、制作すると共に、飛行機を操縦して、民間初の帝都訪問や夜間飛行に成功します。
大正時代、全国で飛行場は所沢にひとつあるだけで、またそこは軍部所有の飛行場であったため、民間人が使用することができませんでした。
かといって、広く平らな土地を収得するには多額の費用がかかります。
そこで、彼らが目をつけたのが、遠浅の東京湾。
干潮時には2、3000mもの堅く湿った砂地が出現し、満潮時に飛行できないことや塩水で陸地より金属が錆付くことが早いことを除けば、なによりそこをタダで使用することができました。
また、当時の飛行機は、「せっけん」といわれていたほど「よくおちる」。
とにかく、失敗の連続で、飛行が安定しないため、少しの横風でも墜落し、飛行士が犠牲になることもたびたびあったため、民家のない海岸は絶好の地でした。
そのため、羽田や、船橋から稲毛にかけての海岸沿いに民間の飛行機会社が設立されました。
(つづく)
参考 : 空気の階段を登れ (平木國夫 / 三樹書房)