飛行機の将来性にかけて出資する人はいたとはいえ、それでも飛行機づくりには多額の費用がかかります。音二郎は絶えず金策に走り回らねばなりませんでした。
音二郎がつけていた日記にも方々への借金で悩む姿が綴られています。
音二郎の事業収益の柱は主に3つ。
飛行機をつくり、それを売る(自主開発及び委託開発)
つくった飛行機で飛行会を催す(興行イベント)
飛行学校をつくり、飛行士を養成する(学校経営)
当時、飛行機に携わる人たちは、主に二つのタイプに大別されていました。
外国製エンジンを使い、機体は自ら制作、機乗する。
フランスやアメリカの飛行機学校に留学して、完成された飛行機を輸入、機乗する。
多くの飛行士たちは「飛行会」と銘打ち、全国を興行して回りました。
飛行機自体がまだまだ目新しい時代でもあり、地方によっては15〜30分ほどの飛行会に、数万人の観客が押し寄せることもあったようです。
飛行士個々の技量に左右される「飛行会」はやがて廃れると感じていた音二郎は、都市間定期航空や飛行機による郵便事業を模索し、また大都市近郊の飛行場設置の重要性を自治体や帝国飛行協会などに進言します。
しかし、日本の飛行機開発は元々陸軍を中心にした軍事利用が主で、やがて軍需産業以外の民間飛行機会社は生き残れなくなり、また敗戦と共に飛行機事業自体が成り立たなくなってしまいます。
音二郎もやむなく航空事業から手を引き、成田で農場を営むことになります。
時が立ち、1966年、新東京国際空港の建設地が成田市三里塚に決定されます。
偶然にも音二郎の土地はB滑走路のど真ん中でした。
音二郎は土地収用契約第一号として、その土地を公団に引渡し、津田沼の元飛行場近くに移り住み、1972年に80歳で亡くなりました。
参考 : 空気の階段を登れ (平木國夫 / 三樹書房)