セミナー会場は16階建の5階でしたが、机や椅子が前後左右に引っ張られるように動き回り、部屋の間仕切りが激しく揺れ続きました。(14時46分)
揺れが収まると、参加者の多くが携帯やスマートフォンで地震情報を確認しはじめ、東北地方で震度7、大津波警報が出された事を知りました。
これは大変な災害になる、また大きな余震も来ると思いましたが、何事もなかったようにセミナーは続けられました。
しばらくすると、再び大きな揺れが起こり(発表者はそれでも主催者が留めるまで発表続ける生真面目ぶり?!)、セミナーは一時中断 (15時15分) 。
これ以上発表者に付き合いきれないと、非常階段 (壁面にはいくつも亀裂が生じていた) でビルの外に出ました。
歩道にオフィスビルから飛び出してきた多くの会社員で溢れ、中には災害用の白いヘルメットをかぶった若い女性の姿もありました。
NTTドコモの携帯電話は通話もメールの受信もできませんでした。道沿いの公衆電話はどこも長蛇の列で、タクシー乗り場や都営バスの停留所(渋谷駅行き)にも、多くの人の列ができていました。
夕方横浜に行くことになっていたため、交通情報の確認をしなければと思い、虎ノ門の駅に向かいました。
駅で首都圏の交通がマヒしていること確認 (15時20分)し、とにかくもっと情報を得なければと、新橋のSL広場を目指しました。
SL広場前は大型スクリーンで地震と津波の映像を見入る人で溢れかえり、上空をTV局のヘリコプターが旋回していました。またJR新橋駅では電車の運行の見通しがたたないこと、駅構内に居るのは危険なのですぐに立ち退くよう繰り返し放送していました。(15時30分)
交通機関がストップし、高速道路も閉鎖されたことから、帰宅するまでには相当時間がかかると腹を決め、まずは身を寄せられる場所の確保を考えました。
徒歩40分程の柳橋に友達がいるのでそこを目指そうとも思いましたが、まだ本人と連絡が取れないこと、無理して行っても友達が家に居ない可能性もありました。
余震も頻発し、ビル街を歩くことはリスクもあり、また気温も下がり始め、雲ゆきもあやしくなってきたので、暖房も効き、きれいなトイレのある丸の内のオフィスビル街を目指すことにしました。
東京駅もどうかとも思いましたが、駅は人で溢れかえるだろうと考え、やめました。
日比谷から晴海通りを抜け、仲通りに入ると小雨が降り始めました。
NTTドコモのショップが目に留まり、そのビル(新有楽町ビル)に入るとエレベーター前のテレビモニターでニュース映像を流しており、そこで一息つくことにしました(15時45分)。
トイレに行き、自動販売機でお茶を買い、しばらくテレビモニターで災害情報を収集。その後、ケータイを充電するため、ドコモショップへ行きました。(16時15分)
ショップはケータイを充電する人や予備の電池を求める人などで大変な混雑でしたが、ケータイを係の人に預け、充電を依頼(18時にショップは閉まるのでそれまでには取りに来てくださいとのこと)。それから夕食を買いに近くのコンビニに行きましたが、人がたくさんいたのであきらめ、近くのビルの地下でお弁当を買って新有楽町ビルに戻りました (16時30分) 。
首都圏のJR線のその日の運行中止が伝えられた頃、ビルの通路に青いビニールシートが次々に敷き始められました (16時45分頃) 。
ドコモショップで預けていたケータイを受け取り、テレビモニターのある場所に戻ると、青いビニールシートには早目に仕事を切り上げたOLやビジネスマンなど多くの人が靴を脱いで、疲れた体を休めていました(17時30分)。
僕もビニールシートに座り、まずは腹ごしらえ。
それから、夜間小腹が空いたときに備え、ドラッグストアでキャンディとガムを購入し、安否確認の通話とメールを何度か行いました。しかし、全くつながらない状態が続きました(〜18時頃)。
18時半頃、館内放送で営団地下鉄の一部が動き出したとのアナウンスが流れると、ビニールシートで体を休めていた人たちが少しずつ立ち去り始めました。
その後、ビルに入居している企業の防災担当者(男女)が大きな段ボールを抱えて現れ、毛布代わりの防災時用アルミシート(120×250cm)を一人ひとりに配り始めました。また携帯カイロと水(紙コップ)を必要な人に渡しました。
ビニールシートに座っていた人たちの中にはアルミシートに包まって早々と横になる人もいました。
ドコモショップは閉店後、セルフ充電機器を店舗前に設置したので、多くの人が使用していました。これはとても助かりました。
19時頃、ようやく安否確認メールの受信ができるようになり、柳橋の友達とも連絡が付きました。
柳橋には歩いて行くこともできましたが、都営浅草線が浅草橋まで動き始めたとのアナウンスがあり、東銀座から都営浅草線に乗ることにしました。
しかし、今行っても駅構内も電車も混んでいるだろうから、もうしばらく様子を見ることにしました。
22時を過ぎると、一部の灯りを残し、館内が暗くなったので、ビルを出て東銀座駅を目指しました(23時)。
有楽町から銀座にかけてはいつもの金曜日の夜の様でした。
ネオンも光輝き、歩道には一杯飲んだ多くの会社員が行き帰していました。タクシーを待つ長い行列や晴海通りの渋滞をみれば、まるでバブル時代の週末を見ているかの様でした。
東銀座駅はとても空いていて、浅草橋駅停まりの電車もすぐ来ました。車内も新聞が読めるくらいでした。
渋滞し、車がほとんど動かない江戸通りを越えて、柳橋の友達の家に到着したのは23時半過ぎでした。
それにしても、なんと整然とした光景なのでしょう。
虎ノ門のオフィスビルから歩道に飛び出してきた人たちも、バスやタクシーを待つ人も、また丸の内のビルに避難してきた人も、夜の銀座を道行く人も、ほとんど動かない大渋滞にはまったドライバーも。
半ば諦め、運命を受け入れるしかないと諦観したような印象。
翌日、
やっと動き出したぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り、いつもの倍以上の時間をかけて帰宅 しました。
マンションに着くと、受水槽が破損により断水したので公園の水を使うようにとの張り紙と2Lのミネラルウォーター1本が玄関前に置かれていました。
翌日の夕方、受水槽が復旧。復旧したことを各戸に知らせに行く(今年は自治会の役員)と、高層階は相当揺れがあったようで、不安から集会所で一夜を過ごしたご高齢の方もいました。
高層階は水を汲みに行くのも一苦労だったので、早く復旧して本当に良かった。
その夜、政府は14日からの輪番停電実施を発表。
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は、「不屈の日本」と題する社説を掲載した。