2009年08月16日

真夏の夜の開通で垣間見えたこと

メキシコ地震(1985年9月)があった翌年、メキシコを旅したことがありました。
震災後、半年ばかりたっていましたが、地域によってはまだ電気の復旧工事をしており、お国柄とはいえ、ずいぶんのんびりしたものだと思ったものでした。

片や、静岡地震で不通になっていた東名高速が5日ぶりに全面開通した日本。

東西交通の大動脈であり、一年でもっとも混雑するお盆休みに時期が重なったこともあり、昼夜ぶっ通しの復旧工事が続られました。

この間、NHKをはじめTV各局は連日トップニュースで復旧状況を逐一伝え、TVレポーターは早く開通してほしいという帰省客の当たり前の声をことさら強調し、選挙がらみで設けたお盆の高速道路上限1000円効果を台無しにしたくない国土交通大臣からは「○○日までには開通させたい」というプレッシャーをかけられ、工事関係者はさぞかし大変だったことと思います。

地震によるあれだけの崩落現場を5日で元通りにせよというのは、素人目にみても相当無理があるにもかかわらず、なにがなんでも復旧を急がせた道路管理上層部にはなんともいえない怒りを感じます。

半年たっても生活インフラが復旧しない国民性も困りものですが、上からやれといわれれば、がんばってやってしまい、それを良しとする国民性も、どうかと思います。

日本の自殺者は年間3万人以上。
その原因の一端を今回の復旧工事に垣間見た気がしました。


こびとのいる街 (2006.8.29)
血液型と幸福度 (2008.7.18) 
フィンランド人もウクライナ人もネパール人も (2008.7.21)
料金割引より、移動手段の革命 (2009.3.27)

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2009年08月05日

『変』が訴えるもの

毎年夏休みに入ると、自宅前の公園で早朝ラジオ体操が行われます。
以前は子供たちが午前6時頃に集まり、そのざわめき声とそれなりに大きなラジオ体操の音に目を覚ましていたのですが、きっと苦情があったのでしょう、昨年あたりからラジオ体操の音量もぐっと小さくなり、子供たちも静かに集まって、早々に散会するようになりました。

愛知県東海市大田町の夏祭りで、イヤホンで音を聞きながらの「無音」盆踊りが行われました。
FM電波で曲を飛ばし、踊り手が携帯ラジオで受信しながら、「炭坑節」など4曲を踊ったそうです。

主催者によれば、無音盆踊りを「苦情を気にせずに踊りを楽しめるモデルケース」として実施。
今後は、FM電波を飛ばす機械を複合的に使って民踊と同時にポップスを流したり、踊り手を途中で入れ替えて見物人も楽しめるようにしたい意向のようです。

そして、この常識破りの「変」さについては、「踊り手が何百人にもなったとき、その『変』が訴えるものがある」と感じたといいます。

全国津々浦々で実施されている地元商工会議所と商店街主催の凡百のおざなり夏祭りを吹き飛ばす名物イベントに是非育ってほしいと思いました。

そのうち、「無音」ラジオ体操も登場するかな。

参考:J-CASTニュース(2009.8.3)


夏祭り バチ当り (2007.7.28.)
ロボットの効用のひとつに (2008.4.23)
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2009年07月13日

レディース男子の面目躍如

分子生物学の福岡伸一氏によると、男とは、「生物の基本仕様としての女性を無理やり作りかえたもの」であり、生物学的には、「女のできそこない」なのだそうです。

先日のNHK「東京カワイイTV」で、「レディース男子」を取り上げていました。

レディース男子とは、女性用の服(レディース)を女装趣味としてではなく、ファッションアイテムとして積極的に着こなす男性のこと。

番組では、スキニージーンズやハイヒールで「レディース」に挑戦する男性が紹介されていましたが、とても面白い試みだと思いました。

髪型、スキンケア、ネイルに関心を持つ、いわゆる「メンズビューティー」の流れからも、今後レディース男子ブランドも十分成り立つのではと思いました。

もちろん、男が女物を着るわけですから、体型的には相当無理を強いられます。
しかし、女性だって、昔はコルセットで腰をぎゅうぎゅう縛り上げ、真冬でも胸元を露にしていたわけですから、「美」のためなら、どうということもないでしょう。

それにしても、「婚活」など女の元気さばかりが目立つ日本で、「草食系」だの「レディース男子」にスポットが当たるということは、女のできそこないである男のある意味面目躍如といったところなのかもしれません。

参考 できそこないの男たち (福岡伸一著 光文社新書)

ギャル・ロボ (2006.8.19)
女ごころと未来のロボット (2006.9.25)
Ladies そしてまたLadies (2007.3. 7)
中性的ダンディズム (2008.5.26)

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2009年06月16日

乗るクルマを選ぶ道

だいぶ以前、カリフォルニアの101号線やキーウェストに至るセブンマイルブリッジを車で走ったとき、こんなに気持ちのいいドライブもあるのかと思いましたが、上には上があるものです。

アルファロメオが選んだ世界の「ベストロード」トップ3。

それは、
60ものカーブが連続する「ジュベル・ハフィート・ロード」(アラブ首長国連邦)、
点在する島々を12の橋でつなぐ「アトランティック・ロード」(ノルウェイ)、
そして、海への下り坂に19のカーブが連続する「コール・デ・ダルス・レイス」(スペイン・マヨルカ島)。

撮り方のうまさもありますが、どの道も官能的なまでに美しい。
一度は走ってみたいと思わせる強烈な魅力を感じます。

それは、乗るクルマを選ぶ道でもあります。
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2009年05月08日

選択と愛着

(つづき)
車検も近づき、いくつかの選択肢がありました。

@車検に出す (そのまま所有する)
A廃車にする (所有をやめる)
B新車に代える (ハイブリッド車)

またAの廃車にした場合、

a.必要時にレンタカーを借りる
b.カーシェアリングに入会する
c.電動スクーターを購入する
d.電動アシスト自転車を購入する
e.必要時にタクシーを利用する
f.徒歩と公共交通機関に徹する

aの場合、一番近いレンタカー店でも500m離れている。
bは、まだ近所にない。
cは、ヤマハやホンダから以前発売されていたが、いまは発売中止のため、アメリカ製のを試乗。バッテリーの取り外しができず、階上のマンションでは充電できない。
d.生活上それほどの長距離の必要なし。

などなど、どれも帯に短し、たすきに流し。

ティグラへの愛着のほうが勝りました。

それにしても、愛着をもって長く大事に乗っているクルマの税金が、13年目以降上がるのは、納得いかない。
環境対応車への買い替えだけが優遇されるのも、納得いかない。
車検というシステムや有無を言わせない法定費用も、納得がいかない。

土日高速1000円なんか、絶対に利用しない。

料金割引より、移動手段の革命 (2009.3.27)
電動アシスト自転車が、いく (2008.10.5) 
クルマ本体0円、距離別利用料金、家族割り (2008.1.23) 
移動する家電 (2008.1.15)
The People’s Car (2008.1.11)
モビリティ・デバイト (2006.8.6)

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2009年04月22日

対価の会心

(つづき)
国内景気の後退で、昨年、労働基準監督署に不服を申し立てた労働者の数は約4万件。

「希望ある未来社会実現のために今、何をすべき」をテーマに開催されたシンポジウムでも、雇用についての提言がなされていました。

工業型製品(ニーズ型)に代わり、快適さや癒し、心地よさ、感動、達成感などの人間の欲求を満たすウォンツ型製品が主流になる知識型社会では、サラリーマンに代表される雇用(身分)ではなく、「社会における役割としてのしごと」が重視されるため、職のプロフェッショナル化が進みます。

現在、正規、非正規という「雇用(身分)」にこだわっている人も、本来は職のプロフェッショナル化を目指すべきなのですが、その「社会における役割としてのしごと」が、実際対価を生めるものなのかどうか
そこが、本当の悩みどころですね。
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2009年02月25日

弊社ならではの「逸品」

あの日産・マーチをまさかのクラシカル使用「ビュート(美遊人)」に変身させ、ランボルギーニばりのびっくりスーパーカー「大蛇(オロチ)」を造り、挙句は組み立てマイクロカーまで販売する日本で十番目の自動車メーカー、光岡自動車。

そのラインアップは、まさになんでもありのアグレッシブさです。

その光岡自動車が、またもやってくれました。
今度は新型霊柩車「ミツオカリムジン タイプ2−04」。

トヨタの「カローラ フィールダー」をベースに、よりコンパクトで、取り回しのすぐれた霊柩車とのことですが、自ら公然と"おくりぐるま"と言ってしまう無節操さ。

しかし、そのプレスリリースからは作り手の気持ちが素直に伝わり、ベタな表現ながら、なにかすがすがしい印象さえ受けます。

『「品格ある重厚な存在感は、お値打ちな価格、手ごろな取り回し易さ、低いランニングコストと安心のメンテナンスは、必ず期待に添えるものと自負致しております。
例えば弊社ならではの特徴となりますが、輸入霊柩車耐久年数の常識をはるかに超えた、長きにわたる使用をサポートするべく体制を整えております。長年の使用には機関系統のメンテナンスはもとより、存在感をかもし出す外装などの適時リフォームも大変重要になります。弊社の "おくりぐるま" は、これにより更なるリーズナブル&安心感をご提供致します』(プレスリリース原文)

そして、
『誰もが迎える「人間の尊厳ある終焉」をお見送りする、意味のある製品であり、1台1台手作りによるクルマ造りを行う弊社ならではの「逸品」と自負致しております』

従来のタイプに比べ大分控えめなこの霊柩車に乗って、ひっそりと旅立ちたいと思う人は、案外多いかもしれません。

情熱とストーリー (2007.10.29)
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2009年02月12日

音二郎のこと

(つづき)
飛行機の将来性にかけて出資する人はいたとはいえ、それでも飛行機づくりには多額の費用がかかります。音二郎は絶えず金策に走り回らねばなりませんでした。
音二郎がつけていた日記にも方々への借金で悩む姿が綴られています。

音二郎の事業収益の柱は主に3つ。

飛行機をつくり、それを売る(自主開発及び委託開発)
つくった飛行機で飛行会を催す(興行イベント)
飛行学校をつくり、飛行士を養成する(学校経営)

当時、飛行機に携わる人たちは、主に二つのタイプに大別されていました。
外国製エンジンを使い、機体は自ら制作、機乗する。
フランスやアメリカの飛行機学校に留学して、完成された飛行機を輸入、機乗する。

多くの飛行士たちは「飛行会」と銘打ち、全国を興行して回りました。
飛行機自体がまだまだ目新しい時代でもあり、地方によっては15〜30分ほどの飛行会に、数万人の観客が押し寄せることもあったようです。

飛行士個々の技量に左右される「飛行会」はやがて廃れると感じていた音二郎は、都市間定期航空や飛行機による郵便事業を模索し、また大都市近郊の飛行場設置の重要性を自治体や帝国飛行協会などに進言します。
しかし、日本の飛行機開発は元々陸軍を中心にした軍事利用が主で、やがて軍需産業以外の民間飛行機会社は生き残れなくなり、また敗戦と共に飛行機事業自体が成り立たなくなってしまいます。

音二郎もやむなく航空事業から手を引き、成田で農場を営むことになります。

時が立ち、1966年、新東京国際空港の建設地が成田市三里塚に決定されます。
偶然にも音二郎の土地はB滑走路のど真ん中でした。

音二郎は土地収用契約第一号として、その土地を公団に引渡し、津田沼の元飛行場近くに移り住み、1972年に80歳で亡くなりました。

参考 : 空気の階段を登れ (平木國夫 / 三樹書房)
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2009年02月10日

伊藤飛行機研究所

明治時代末に日本で初めて飛行に成功して以来、大正、昭和のはじめにかけて、民間の飛行機会社が設立されました。

1918年に千葉県津田沼海岸に設立された伊藤飛行機研究所はその代表的なひとつで、所長の伊藤音二郎は伊藤式という複葉飛行機や水上機を自ら、設計、制作すると共に、飛行機を操縦して、民間初の帝都訪問や夜間飛行に成功します。

大正時代、全国で飛行場は所沢にひとつあるだけで、またそこは軍部所有の飛行場であったため、民間人が使用することができませんでした。
かといって、広く平らな土地を収得するには多額の費用がかかります。
そこで、彼らが目をつけたのが、遠浅の東京湾。
干潮時には2、3000mもの堅く湿った砂地が出現し、満潮時に飛行できないことや塩水で陸地より金属が錆付くことが早いことを除けば、なによりそこをタダで使用することができました。

また、当時の飛行機は、「せっけん」といわれていたほど「よくおちる」。
とにかく、失敗の連続で、飛行が安定しないため、少しの横風でも墜落し、飛行士が犠牲になることもたびたびあったため、民家のない海岸は絶好の地でした。

そのため、羽田や、船橋から稲毛にかけての海岸沿いに民間の飛行機会社が設立されました。
(つづく)

参考 : 空気の階段を登れ (平木國夫 / 三樹書房)
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2009年01月31日

分別のある子供を育てる秘策

「泣きたくなるほど美しい」と桂離宮を讃えたブルーノ・タウトは、ナチスの支配体制から逃れるため、1933年5月からの3年半あまり「建築家の休暇」と称して日本に滞在しました。

その間、2つの邸宅を建築する以外は講演会や執筆活動を行い、特に伊勢神宮や桂離宮を賞賛したことで、いつしか「日本美の発見者」と形容されるようになります。

その一方、タウトは日本での生活を克明に綴った日記や1400点余りの写真を残しています。

その写真には、花見の酒宴、朽ち果てそうな民家、長屋の路地、福助足袋の看板写真から、紙芝居に見入る子供たち、ボロは着ているが元気でたくましそうな乞食、葬式、墓、ちんどん屋、アドバルーン、そして地面に寝そべる忠犬ハチ公や秋田の箱ゾリまで、タウトが好奇心のままに撮ったなんでもありの日本の姿が写されています。

特にタウトが関心を示したのが「おんぶ」。
中でも子供が赤ん坊を背負う「おんぶ」写真を多く残しています。

そして、この習慣が「分別のある子供を育てる」結果になっているのではないかとも考えたりしています。

そういえば、最近赤ん坊を「おんぶ」する子供などお目にかかったことはなく、子供のいる若いお母さんでさえ「抱っこ」はしていても「おんぶ」はしません。

やはりタウトの日本を見る目は確かなようです。

それにしても、撮った写真のほとんどはピンぼけで(カメラの所為でもあるようですが)、しかも被写体の首から上が写っていなかったり、なにを撮りたかったのかわからない構図の写真も多く、名建築家必ずしも名カメラマンにあらずというところに、かえって親しみを覚えます。

参考 タウトが撮ったニッポン(武蔵野美術大学出版局)
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2008年11月19日

きまぐれな女神

購入して20年。「幸福の木」に花が咲きました。
3年ぶり2回目のことです。

前回は「幸福の木」に花が咲くなどとは思いもよらず、しかも咲きはじめたかと思いきや、いきなり強烈な香りを放出したので、本当にびっくり。

「幸福の木」の学名は、ドラセナ・フラグランス・マッサンゲアーナ。
「フラグランス(香り)」という名がつけられているのですね。

今回は2回目ということもあり、突然の開花自体には驚きませんでしたが、花茎が前回の5倍ほども伸びていき、たわわに咲いた自身の重みで斜めに垂れ下がった頃、またまた強烈な香りを放出。
ふいをつかれてしまいました。

ハワイでは、この木を家の前に置いておくと縁起がいいという言い伝えから、「幸福を呼ぶ木」として、親しまれるようになったようですが、
本当のところは、長い年月の後、いきなり開花したかと思うと、また沈黙し、やがて忘れた頃にまた開花という、まるで幸福の女神のような「きまぐれさ」ゆえ、「幸福のような木」と思われたから、かもしれません。
posted by カーサ at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | エトセトラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月15日

実にモッタイナイ話

汚染米を原料に使った焼酎や日本酒の自主回収が、続いています。その数、100万本以上。

農薬やカビが基準値を超えて残留している可能性があるため、該当する焼酎や酒は、在庫分も合わせて、すべて廃棄するようです。

どの程度の「毒」が人体に影響するかわかりませんが、実にモッタイナイ話です。

「酒で死ぬなら本望。棄てるくらいなら俺にくれ!」
全国の飲んべぇの嘆き声が聞こえてきそうです。

バイオエタノール車への活用など、廃棄以外の良い方法はないものなのでしょうか。
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2008年07月21日

フィンランド人もウクライナ人もネパール人も

(つづき)
日本人の血液型の割合は、A型38%、B型22%、O型31%、AB型9%

この割合が日本人の性質や文化を形作ってきたともいえるのかもしれませんが、他に日本と同じような血液型の割合の国を調べてみると

お隣り韓国が、A型32%、B型30%、O型27%、AB型11%。
中国(華北)が、A型30%、B型29%、O型33%、AB型8%。
また、国民性が似ているといわれるイスラエルが、A型41%、B型17%、O型36%、AB型6%。

しかし、それよりも、
フィンランド、ロシア、ウクライナ及びポーランド、チェコ、ハンガリー、ユーゴスラビアなどの東ヨーロッパ諸国、またカザフスタン、ウズベキスタン、チベット、ネパールなどの中央アジアの国々のほうが概ね近いことがわかります。

フィンランド A型42%、B型18%、O型33%、AB型7%。
ロシア  A型35%、B型23%、O型35%、AB型8%。

特に、下記3国はほとんど一緒です。
ウクライナ A型39%、B型22%、O型32%、AB型8%。
ネパール A型37%、B型24%、O型30%、AB型9%。
チベット A型37%、B型24%、O型30%、AB型9%。

地域的に近い国より、遠い国で血液型の割合が似ているのはなぜなのか。
血液型により、人の気質が違うのであれば、血液型の割合が似ている国の国民性は似たものになるのか。
血液型占いは、フィンランド人もウクライナ人もネパール人もやっぱり好きなのか。
ロシア人やチベット人にも「すこしであんしん終身医療保険」のTVコマーシャルはやはり効果があるのか。

血液型、わからないことだらけですねぇ。

ダイジョウブ・ロボ (2006.9.27)
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2008年07月18日

血液型と幸福度

「●型自分の説明書」という血液型の本がベストセラーになっていますが、アメリカの「ワールド・バリューズ・サーベイ」による約100カ国・地域を対象とした「幸福度」調査※によると、
市民が最も幸せを感じているのはデンマークだそうです。

2位以下はプエルトリコ、コロンビア、アイスランド、北アイルランドで、
米国16位、英国21位、ブラジル30位、フランス37位、
日本43位、中国54位、韓国62位、インド69位、エジプト74位、ロシア89位、イラク92位、そして最下位はムガベ独裁政権が続くジンバブエ。

で、血液型と幸福度に相関関係があるのか、ちょっと調べてみました

幸福度上位5ヶ国のA、B、O、AB型の割合を見てみると、人口比は概ね以下の数値になります。

A型 33%以下、B型10%以下、O型42%以上、AB型4%以下。

この数値を上記の国々に当てはめてみると、
37位のフランスまでは4つの型のうち3つまであてはまります (プエルトリコのみ例外)。

しかし、43位の日本以下イラクまでは、この数値がほとんどあてはまりません。(ジンバブエはデータなし)。
ちなみに日本人の血液型の割合は、A型38%、B型22%、O型31%、AB型9%。

数値結果からは、O型の割合が多く、B型の割合が少ない国のほうが、「幸福度」を感じるという傾向があるようです。

もちろん、社会情勢や国内経済などの外部環境要因が大きいのでしょうが、心理面での「幸福」感覚に、なにか影響しているような気がします。

ちなみに、A型はヨーロッパ、日本、北米、B型は中国、インド、中近東、O型はアフリカ、東南アジア、中・南米に多いという地域差があります。(AB型はどの地域でも少数)
(つづく)

※毎日新聞 (7月16日)
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2008年07月16日

生き馬の目を抜く

今月3日、6年間にわたってコロンビア革命軍(FARC)に人質にされていたフランス国籍の元大統領候補イングリッド・ベタンクールさんが、他の人質15人と共に、政府軍によって電撃的に救出されたというニュース。
驚いた方も多かったと思います。

2児の母親であるベタンクールさんは、1994年にコロンビア下院議員に当選し、2002年にコロンビアの大統領候補になりますが、現職大統領の汚職を告発したことで命を狙われ、選挙を目前に誘拐されてしまいます。

ジャングルでの監禁生活は、過酷を極め、食事はほとんどがコメとマメ、衣類の支給もほとんどなく、夜は地面に防水布を敷いて寝かされ、
裸足のままでの密林移動、首をくいに鎖でくくりつけられることもあったといいます。

2003年、当時内相だったサルコジ大統領が、極秘に仏軍機をコロンビアに送り込み、ベタンクールさん救出作戦を試みましたが、失敗に終わっています。

この電撃救出作戦のお株を奪うのが、生き馬の目を抜くハリウッドの映画界。

ハリウッド・レポーター紙※によると、ベタンクールさんの救出劇の映画化がもう決まったそうです。

ドラマチックなベタンクールさんの人生は、確かに映画のようだと思いましたが、それにしても ・・・

北朝鮮の観光地、金剛山(クムガンサン)で韓国人女性観光客が北朝鮮兵士に射殺された事件も、早々に映画化(こちらは韓国映画として)されそうですね。

※製作はヴァーティゴ・エンターテイメントとコロンビアのテレビ局など。監督は映画『unknown/アンノウン』のサイモン・ブランド。

参考: 毎日新聞 (7月3日)、産経新聞 (7月4日)、シネマトゥデイ (7月16日)

秋の夜長に観てみんとす (2007年9月30日)
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2008年07月10日

永遠と変化

 古池や蛙飛こむ水のおと

子供の頃、はじめて松尾芭蕉のこの句を聞いたとき、とても不思議な感じがしたものでした。

同じ印象は、種田山頭火の、

 分け入つても分け入つても青い山

を聞いたときにも感じましたが、何故そう感じるのか、よくわかりませんでした。

17文字で表現する俳句は、古来から多くの人によって様々な句が作られてきました。
しかし、一度聞いてだけで決して忘れられない句というのは、それほど多くありません。
俳句の人気ベストテンがあれば、「古池〜」は間違いなく上位にランクインすることでしょう。

それは何故なのか。

その時 歴史は動いた」(NHK)で、この句が誕生する背景が紹介されていました。

弟子たちを前に芭蕉はまず下の句を詠みました。

 蛙飛こむ水のおと

古い俳諧の解釈では、蛙は鳴くものであり、「蛙が飛ぶ」という表現は相当意表をついたものだったようです。

また、蛙の対となるのは、従来の解釈では「山吹」というのが一般的で、当然弟子たちもその言葉が上の句にくるものと考えていました。
ところが、芭蕉が提示したのは、「古池」。

蛙の一瞬の躍動感と静謐な古池の様子。

それは様々な情景をイメージさせ、無限の解釈ができる世界。
芭蕉はこれにより、新しい俳諧の境地、不易流行に至ったといいます。

永遠不変(不易)と刻々の変化(流行)。

「古池〜」が320年以上に渡って、人々に愛される理由が、今にして分かった気がします。

参考 : 人知らずしてうらみず (2008.1.26)
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2008年05月26日

中性的ダンディズム

先週NHKBSで放送された「徳永英明1000thライブ」。

徳永英明が女性アーティストの名曲をカバーした「VOCALIST」シリーズからの曲を中心に90分番組として構成されていました。

徳永英明は、2001年に病気を発病し、その後2年間第一線を離れ、2005年に「VOCALIST」をヒットさせます。
今回の放送を見ての印象は、諦観にも似た「静けさ」というものでした。

若く、元気があるときは、「こだわりの生き方、気取りの生活」=ダンディズムを勢いで貫くこともできますが、心身が病み、若くもなくなってきたときに、どうすれば自分なりの生き方や生活スタイルを貫くことができるのか。

徳永英明は、女性アーティストの歌を唄うという中性的な立場に自分の身をおくことによって、自分なりのダンディズムを表現しようとしたのかもしれません。

もちろん過去の他人のヒット曲を集めたこのコンピレーションアルバムには、LIVEで本人が述べていたように、さまざまな批判もあるでしょう。

ただ、「VOCALIST」シリーズが300万枚を越えるヒットをする背景には、若さや勢いをなくしつつある現代の日本が、「中性的ダンディズム」を求める時代に入ったひとつの証なのかもしれません。

参考 : ヨーコ&ジョン、ジョン (2006.4.20)
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2008年05月15日

空あり

ある日、街中で「空あり」という文字を見て、「くうあり」と読んでシマッタ! みうらじゅん氏は、看板の文字の写真、「写真経」だけで般若心経を完成させることを思い立ちます。

しかし、般若心経は難しい文字も多く、たった1文字を撮るために全国を歩きまわることになります。

「空なのに有るとは何か」、それを悟るがための修行僧のような日々。

ひとつひとつの文字を無心に探すうちに、やがて「一切の存在は空であるが、その空であることが体得されると、存在がそのまま実在であるとわかる」すなわち、「色即是空 空即是色」を体感するに至ります。

みうら氏はこれまでも「見仏記」や、マイブーム、ザ・スライドショーなどで仏像や仏教への深い愛情と造詣を披露していますが、この「アウトドア般若心経」は、みうら氏なりの仏の本質に迫る試みになっています。

いやげ物、ゆるキャラ、とんまつり、親孝行プレイなどなど、独特な表現で時代を切り取ってきたみうら氏にとって、この「アウトドア般若心経」は、夢や希望をなくして家にひきこもり、自殺さえ考えがちな日本の若者たち、大人たちへの前向きな応援歌なのかもしれません。

参考 : アウトドア般若心経 (幻冬舎)
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2008年05月07日

意思をもったモノ。ヒト700万年の記憶

(つづき)
旧石器時代は生活のための実用一辺倒のモノばかり作られていたと思われがちですが、実際は非常に多様なモノが作られています。

考古学者の松木武彦氏は、旧石器時代の石器の中について、

「大きく美しく、ひたすら見た目を追求した大型石ヤリは、かなりの石材と手数と時間とをつぎこんだわりに、薄くて壊れやすいという機能的欠陥をもち、経済的には不合理な人工物だ。
使うことよりも、作ることそのものを楽しみ、技を競い、出来映えに陶酔し、「ほら見ろ」と誇示するための道具で、経済的な実質価値よりも、認知上の付加価値、メッセージ性に満ちた品物」
が数多くあると述べています。

先日の「クローズアップ現代」(NHK)で、ジュネーブ国際モーターショーに出品したモディー社(岩手県一関市)の超軽量スポーツカーが紹介されていました。

カーボンファイバーとアルミを使用したボディは、重量750kg。塗装は一切せず、素材はむき出し。無駄をそぎ落とし、走る楽しさを追求したといいます。

デザインと感性に訴える加工技術で、地場産製品を直接世界に売り込む「山形カロッツェリア研究会」を組織したデザイナーの奥山清行氏は、

『「必要ないんだけど欲しくて仕方がないモノ。買う人がどうしても欲しいと思う強烈な個性
をブランドと位置づけ、作り手自らが、
世界のどこにもなく、触りたいという気持ちを起こさせ、絶対に欲しいと思うモノ」を
誰のためでもなく、納得いくまで、自分のために作る」こと。
それが、「意思をもったモノ」に通じる』、と述べています。

そういった商品は、当然高価で売り先は限定されます。
モディー社のスポーツカーには世界で20台の先行予約が入ったそうです。
(つづく)

参考文献 : 列島創世記 (小学館)
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2008年04月20日

ヨーコ&ジョン、ジョン

NHK BS「黄金の洋楽ライブ」で、ジョン・レノンの2つのライブが放送されました。

ひとつは、1969年9月のトロントでの「ロックン・ロール・リヴァイヴァル・ショー」。

これはプラスティック・オノ・バンド初のステージ演奏ですが、現地に向かう飛行機の中で打ち合わせをしただけという即興ライブだっただけに、ヨーコが書いた曲順や歌詞のメモを見ながら演奏しているジョンの様子が映っています。

メンバーはジョンとヨーコのほかに、ギターをエリック・クラプトン、ドラムスにYESのアラン・ホワイト、そしてベースを親友のクラウス・フォアマンが担当し、「コールド・ターキー」と「平和を我等に」は初演でした。

とはいえ、ジョンがビートルズ在籍のままに参加したライブなだけに、司会のムッシュかまやつ氏も指摘していたように、演奏にどうも「迷い」が感じられ、今ひとつ心晴れない感じがします。

それに対して、ヨーコはアバンギャルドパワー全開で、今見ても圧倒的なパフォーマンス。
ジョンもヨーコの強い毒気に当たって、たじたじといった様子です。

もうひとつは、1972年8月にニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンで行なわれたウィローブルック障害児施設のための「ワン・トゥ・ワン・チャリティコンサート」。

ジョンは、プラスティック・オノ・エレファンツ・メモリー・バンドと共演しています。

ここでのジョンは、だいぶ迷いもとれ、「ホーム」という気安さからか、とてもいい表情で演奏しています。

映像からはヨーコの過激パフォーマンスは見られませんが、それでも最後の「平和を我等に」では2人してヘルメット姿でステージに立ち、しかもジョンのヘルメットには日本語で「全共斗」の文字。

ジョン・レノンは40年の生涯で実にさまざまな側面を見せますが、あらためてオノ・ヨーコとの出会いがいかに大きかったかを垣間見れるライブでした。

一般的には、ジョンとヨーコの活動はジョン&ヨーコという対で呼ばれています。でも本当はヨーコ&ジョンとしたほうが正確に二人の関係を表しています。
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